読書とわたし

2018年より、読書記録をつけることを抱負とし、始めてみました。

人間タワーを読んで

人間タワー

人間タワー

人間タワーとは組体操の一つであり、この小説では6段に及ぶ人間が成すタワーを指す。

桜丘小学校では、2つの小学校が合併し1つになっていく様子を体現しようと、合併の年度以来、「伝統」として6年生全員により運動会で行われてきた。桜丘小学校の関係者また地域の住民にとって、人間タワーは、桜丘小学校の象徴として運動会での目玉となっていた。

この小説は、その人間タワーが失敗するところから始まる。中段のバランスが崩れ、最上段に乗っていた児童が転落し、怪我を負う。

その影響が、保護者、在校生、ネットニュースなどに及び、物議を醸すようすが様々な登場人物の視点から語られる。

現実でも組体操の危険性が、メディアで取り上げられたことが記憶に新しい。
私もそれに興味を持ち、手に取ってみた。

この小説は、全六話で構成されており、各話で語り手が変わる連作短編集である。

一話は、桜丘小学校1年生の息子を持つ母親の雪子。彼女は、目の前で人間タワーの失敗を見たが、息子の将来に水を差したくない、と人間タワーについては否定も肯定もしていない。

二話は、小学校の近くの介護施設に入所している神原伊佐夫。彼は何年も見てきた人間タワーに、かつて妻と駐在していたタイのワットアルンを重ねている。

危険危険とばかの一つ覚えのように声高に言うことで何かと成長の芽をつんでしまうような今の時代において、作る者を一体化させ、観ている者を感動させ、心に大きな何かを残す。そうしたものを生み出せる現場が、今の日本では少なくなっている。(本文より)

伊佐夫は、人間タワーに魅せられており、それを作るため切磋琢磨することが小学生には必要な経験だと、ストイックな視点を持っている。

三話は、人間タワーの指導者である小学校教員、沖田珠愛月(じゅえる)。ドキュンネームに苦しみ、児童に舐められないような指導を心がけている学年主任でもある。ここから話は、人間タワーを失敗した次の年度に変わり、新6年生の運動会の準備の様子が語られ、人間タワーをやるかやらないかで揉めている。

RYOやネットユーザーは甘えている。きっと、実体験がないのだろう。耐えなければ見えてこないものがあることを知らない。苦しみを乗り越えなければ芽生えない信頼もある。実体験がない人は、無形の教育を簡単に貶す。(本文より)

RYOというのは、組体操の危険性をネットニュースで訴える記者である。この人物は、一話に出てくる雪子の元夫で、RYOの不倫が原因で離婚しているという背景がある。

じゅえる先生は、ドキュンネームも手伝って、彼女自身が耐える人生を送ってきており、我慢することが美徳だと思っているところがある。

ここにいる全てのこどもたちに、決して世の中を舐めさせない。強い子になってほしい。耐えられる子になってほしい。(本文より)

このような信念を持って指導にあたっているじゅえる先生にとって、人間タワーは自分の教えたいことを代弁しており、人間タワーはこどもたちの成長のためにあるものだと考える。

四話は、じゅえる先生の担任する6年1組の児童である出畑好喜と、安田澪が語る。
出畑は、6年生にしてはあどけなく、出しゃばりで女子から軽んじられる存在であるが、じゅえる先生を尊敬し、自身も人間タワーを成功させたいと願っている。
一方で、安田澪は6年生からの転入生で、人間タワーを見たこともなく、澪自身もやりたくないと思っている。

上の人には選択肢がある。下の人にはそれがない。(本文より)

澪は人間タワーが世のヒエラルキーを投影しているように感じる。大人びたところがあり、人間タワーを冷めた目で見ている。

五話は、じゅえる先生の部下で、6年2組の担任である島倉優也。彼はゆとり世代の若い教師で、快活さや親しみやすさから、児童に人気があり、そのことに少し奢った気持ちがある。

桜丘小関係者の人間タワーに対する義務感と情熱に気圧されてきた。(本文より)

島倉は、人間タワーに関しては、表向きは中立の姿勢を見せているが、心の中では冷めた目で見ており、「狂気じみている」「惰性の産物」とまで思っている。

この話は、人間タワーについてというより、一人の若い教師の成長の物語という感じがして、番外編というような印象を受けました。私は何気にこの話が一番好きです。

六話は、人間タワーに関する物議の火種となったネットニュースの会社の話。RYOはもちろん、今までの登場人物と関係のある意外な人物が主人公です。ここからはネタバレになるので書きませんが、この話でこれまでの論争にとりあえずの決着がつきます。

私がこの本を読んで考えたことは、人間タワーは、見てみたいなとは思うけど、自分のこどもにはさせたくないなです。

この小説を読んでいると、人間タワーはいかに感動を呼ぶものかというのが伝わってきます。でも、やはり危険であるし、小学生が人間タワーをやることに意味を見出せないと思いました。

周りの大人は皆で協力して我慢して、人間タワーを作るという経験がこどもたちにとって宝物になり、将来のこどもたちに役に立つ日が来ると信じて疑わない。
こどもの頃は、何かと集団行動を強いられることが多いけど、それを糧にして生きている大人はどれくらいいるのだろう?という疑問が浮かんだ。

これは、あくまでも私の個人的な感想だけど。

協力したり、我慢したりすることの大切さは、大人になれば嫌なほど身にしみてわかるし、大人になってから舐めた辛酸の方が俄然、自分を成長させてくれる。我慢強くなるために、耐えられる大人になるために…というのは、大人の自己満足なのかな?と意地悪な見方をしてみたり…。
こどもに押し付けてはいけないな〜と、少し内省的になりました。

人間タワーの賛否もそうですが、色々と考えさせられる作品でした。

つぼみを読んで

つぼみ

つぼみ


スコーレNo.4の記憶が新しいうちに、「つぼみ」を読みました。

こちらは、全6編の短編からなる短編集です。1〜3編は「スコーレNo.4」のスピンオフになっています。残りの3編は独立した短編小説です。


★手を挙げて
こちらは、スコーレNo.4の主人公麻子の叔母である和歌子の話です。

和歌子は幼い頃、母の通っていた教会で、牧師さんが投げかけた質問について未だに考え続けています。それは、

「もう一度生まれてきたとしても、きっとまた今の相手と結婚すると思う人、手を挙げて」(本文より)
というもの。この質問に対して手を挙げていたのは、母ともう一人だけでした。

和歌子は大人になって、姉である里子の結婚や、自分自身の結婚についても、疑いの目を持って生きています。

姉はにこやかなままの顔で首を左右にゆっくりと振った。
「ふり」
「え」
「そういうふりをしたかったのね、お母さん」(本文より)

ある日、和歌子は母が教会で手を挙げたことがふりであったのではないかと姉から聞かされます。

ふりをする。自分を騙す。自分を信じる。それはどういう意味なのか考えさせられる一編でした。


★あのひとの娘
この話の主人公である美奈子という女性は、麻子の父、津川康彦の青春時代の恋人です。生け花教室の先生をしている美奈子のもとに、津川の三女、紗英が通い始めます。

本編ではお豆さんでしかなかった紗英が高校生になって登場です。

自然消滅のように別れてしまった津川に対して、美奈子は未練のような感情を今でも抱いており、独身です。

そして、偶然出会った津川の娘は、あの頃の津川とは見た目も中身も似ていない、何か「物足りない」感じに美奈子の目には映ります。

これをきっかけに、美奈子はずっと大事にしてきた思い出を違う視点で捉えることができるようになっていきます。

「そう思うと怖くなる。私はどれだけ多くのことを気づかずにやり過ごしてきてしまったのだろう。」(本文より)

過去との向き合い方、過去を大事にする仕方など、自分自身の過去も振り返る一助になるお話でした。


★まだまだ、
こちらは生け花教室に通っている紗英のお話。

紗英は天真爛漫で親しみやすい女子高校生へと成長しています。裏表のない印象でみんなに好かれています。言い換えれば舐められやすい感じです。

しかし、紗英自身は、自分らしさに悩み始めます。他人が思う自分らしさとは乖離している自分の一部に気づいてしまうからです。そのきっかけとなったのは、自分に向けられた悪意。大概の人には好かれてきた紗英ですが、数年に一回は自分を毛嫌いしている人物に出会ってしまいます。

「私は悪くない。でもよくもない」(本文より)

紗英は自分なりにこのような結論を出します。

私はどうしてこうなのだろう…という思春期の悩みに丁寧に答えている一編でした。


ここまでが、スコーレNo.4のスピンオフなのですが、個人的には妹の七葉の話も読みたかったなと思いました。そして、私も紗英という人物はあまり好きではありません(笑)


★晴れた日に生まれたこども
晴れた日に生まれたのを由来に晴子、晴彦と名付けられた姉弟のお話です。
母子家庭で育ち、晴子は奨学金で大学を卒業し、堅実な会社で働いています。一方で晴彦は高校を中退し、アルバイトも長続きしない、いわゆるプー太郎です。

姉は、失敗しないように歩んできた人生や、家族の中でも優等生でいることの役回りに少しだけ疑問を持っています。

そんなとき、晴彦の再就職に協力する役回りを引き受けます。

社会の中の自分、家族の中の自分、当たり前のようで普段は気づかない大事なことにハッとさせられる一編です。


★なつかしいひと
こちらは既読でした。「本屋さんのアンソロジー」という本で読んだことがあり、今回は流し読みしたので、感想は割愛いたします。


★ヒロミの旦那のやさおとこ
30代独身実家暮らしの美波には幼馴染が2人います。それがヒロミとみよっちゃんです。
みよっちゃんはバツイチ子持ちの出戻りで、美波とは今でも連絡を取り合う仲です。
そして、ヒロミは高校卒業以来家を出て、ずっと連絡は取っていません。

ヒロミは幼い頃から体も大きく豪傑で、まるで怪獣のようだという前提があります。そしてそのヒロミの旦那がヒロミの実家を訪ねて来て、絵に描いたようなやさおとこだったという意外性からこの話は始まります。

美波やみよっちゃんが知っているヒロミ、旦那のやさおとこから聞かされる知らないヒロミ。

これは、自分自身にも非常に覚えのある、昔の友人が時を経て自分が知らない人間になっているというお話です。
自分の同級生や懐かしい友人との再会を思い浮かべながら読んでいくと面白いと思います。

スコーレNo.4を読んで

スコーレNo.4 (光文社文庫)

スコーレNo.4 (光文社文庫)

 

 

スコーレNo.4を読みました。
2018年記念すべき第1冊目にふさわしい本でした。

 

古道具屋(骨董品店)「マルツ商会」を経営する父と、専業主婦の母の長女として生まれた主人公の津川麻子。彼女には年子の妹である七葉がいて、この七葉が幼い頃から麻子のコンプレックスをくすぐり続けます。

 

「七葉がどうして思ったことを口に出せるのか、私はどうして躊躇するのか。それははっきりしている。七葉が可愛いからだ。」
「可愛さの代わりに勉強で一番になろうとか、スポーツに励もうとか、そんなふうに私は私の花を咲かそうだなんて思えない。うんと走るのが速かったら、物怖じせずになんでも言えるだろうか。ピアノが得意だったら、素直になれただろうか。(中略)気づけばいつも隣に自分よりずっと可愛い妹がいる。それで私は何をがんばればいいんだろう。がんばることと可愛さは全然別のことなんだから。」(本文より)

 

七葉には、七葉の苦労があるだろうし、可愛さがあれば物怖じせずにいられるとか、素直になれるとか、そんな単純なことでもないと思いますが、麻子はこのように考えてしまいます。でも、麻子の思っていることも一理あるので、麻子の気持ちもわかります。
もともとの性格が大人しいこともあり、麻子は真面目で賢くありながら、いつも自信が持てず、人間関係も受け身でいることで、自分を守りながら、青春時代を送ります。

 

得意な英語を活かし、大学卒業後、商社に就職します。最初の配属先は現場経験という名目で高級な輸入品を扱う靴屋の店員として配属されます。いきなりの出向です。
最初こそ受け身な性格が災いし、なかなか仕事に馴染めなかった麻子ですが、骨董品店の娘として育ってきた審美眼が靴屋の仕事でも発揮され始め、その仕事ぶりを認めてもらえるようになります。

 

しかし、麻子はこう考えます。
「心の底から、何かを愛したり欲したりすることのできる人と、そうできない人がいる。私は後者だった。(中略)愛することのできるもなく、強く思い入れることのできるものも、気がつくとまわりには何もなかった。(中略)そういう頑なな一途さが今でも憎いほど羨ましい。」(本文より)

靴を愛し、時には身を滅ぼしてしまいそうになる同僚の店員に比べ、冷静に靴を見ている自分をさみしいと感じてしまいます。

 

何も愛せないという気づきが、本社に戻った後も麻子を縛り、麻子の恋愛観、結婚観を揺さぶり続けます。
また、麻子は少女だった頃、母に対し、こう考えていました。

 

「熱くなったもの、輝いたもの、一緒くたに飲み込んでしまって、それでもいいと思えるしあわせが、あるんだろうか。」(本文より)

 

華道の師範の免許が取れるほどだった母が、結婚を機に辞めてしまったと知った時の言葉です。
この時から、麻子は結婚に疑いを持ち始め、大人になっても、結婚は脅威としてのしかかってきます。

 

この後、あることをきっかけに麻子の考え方は変わり、呪縛が解かれていくのですが、ネタバレになるので、詳しくは書かないようにします。またこの先もネタバレになる表現が含まれているので、まだ読んでいない方はご注意ください。

 

スコーレというのは、「学校」の語源となった言葉のようで、この小説で麻子は4つのスコーレに出会います。
この小説はNo.1〜No.4までの4つの章で構成されており、1〜2は中学〜高校、3〜4は大学〜社会人になります。
1〜3までの麻子が自身に対して抱いた劣等感や疑問をNo.4で丁寧にまとめてくれます。

 

ここからは、私の感想です。
私は、No.4で大切な言葉を3つ見つけました。


「愛したって自由だよ。相手のことだけでがんじがらめになっちゃうのが愛ってわけでもないんじゃない?」(本文より)

 

これは、麻子の恋人である茅野が、麻子の何も愛せないという苦しみに対して放った言葉です。麻子は、何も愛せないわけではない。ちゃんと愛せていた。
愛するということは、定義するのが難しい言葉だと思います。自分をがんじがらめにし、人生を狂わせるほどのものでないと愛と考えられない人もいると思います。麻子のように。だけど、愛することはもっと自由で、ハードルが低いものであるということに気づかせてくれる一言です。

 

「うまくいった結婚って、うまくいった人生の一部だろうと思うから。」(本文より)

 

これは、麻子の結婚に対する気づきです。結婚は人生の一部でしかないと思えば、結婚に呑み込まれることも、結婚で何かを失っているわけではないことも感じられる大事な視点だと思いました。

 

「どうしても忘れられないもの、拘ってしまうもの、深く愛してしまうもの。そういうもの、こそが扉になる。いいことも、悪いことも、涙が出そうなくらいうれしいことも、切ないことも、扉の向こうの深いところでつながっている」(本文より)

 

何にも夢中になれない私、何も特技がない私、がいる一方で、興味のあるものしか受け入れられない私、視野が狭い私、もいる。
「愛したって自由だよ」「結婚は人生の一部」という少し距離を取った言葉と、最後のこの言葉は、相反するように見えて深いところでつながっているように思えます。
冷めている私、情熱的な私、人は相反する部分を必ず持っていると思います。そんな2つの私の疑問にこの小説は丁寧に答えてくれたと感じました。

 

自分自身に迷ったときに思い出したい一冊です。